プロフィール

プロフィール

これまでの歩み、そして無声映画伴奏について

経歴

東京都出身。東京藝術大学音楽学部作曲科卒、ジュリアード音楽院にて作曲修士号取得。作曲・演奏、映像作品への音楽提供に加え、2003年より無声映画伴奏者としても活動している。

撮影: 原岡容子

4歳よりヤマハ音楽教室にて学ぶ。6歳より作曲とピアノを始め、国内外のコンサートにて自作を発表、テレビ・ラジオにも多数出演。ハンガリー国立交響楽団、東京交響楽団、京都市交響楽団など内外の一流オーケストラと共演、ソリストとして自作曲を演奏する機会を得る。

シカゴ交響楽団主催「First Hearing」コンクール優勝。オーケストラや室内楽作品が日米欧で初演・再演され、演奏会用委嘱作品も多数。学生時代より室内楽奏者としてのキャリアも積み、コンサートやコンクールの伴奏者としても活発に活動する。

1999年よりNYを拠点に活動し、映画やテレビなど映像媒体への音楽提供を多数行う。ABCニュース(米国)やNHK(日本)の番組BGMを制作提供したほか、サウンドトラックを担当した映画作品がTurner Classic MoviesやNetflixで放映されている。

2003年、ピアノ即興演奏による無声映画伴奏に出会い、無声映画伴奏者として本格的に活動を開始。以来、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、リンカーンセンターフィルム協会、米国議会図書館、国立フィルムアーカイブ(東京)など、各地の映画団体・協会や映画祭にて伴奏を務めている。

2010年以降、無声映画作品のDVD/ブルーレイリリースのためのオリジナルスコアも提供しており、Kino Lorberの『黒人映画の先駆者達』(2016年)、『先駆者達:世界初の女性映画監督たち』(2018年)、Milestone Filmsの『蛟龍を描く人』(2024年)など、話題作のオリジナルスコアを多数担当。

4歳よりヤマハ音楽教室にて学ぶ。6歳より作曲とピアノを始め、国内外のコンサートにて自作を発表、テレビ・ラジオにも多数出演。ハンガリー国立交響楽団、東京交響楽団、京都市交響楽団など内外の一流オーケストラと共演、ソリストとして自作曲を演奏する機会を得る。

シカゴ交響楽団主催「First Hearing」コンクール優勝。オーケストラや室内楽作品が日米欧で初演・再演され、演奏会用委嘱作品も多数。学生時代より室内楽奏者としてのキャリアも積み、コンサートやコンクールの伴奏者としても活発に活動する。

1999年よりNYを拠点に活動し、映画やテレビなど映像媒体への音楽提供を多数行う。ABCニュース(米国)やNHK(日本)の番組BGMを制作提供したほか、サウンドトラックを担当した映画作品がTurner Classic MoviesやNetflixで放映されている。

2003年、ピアノ即興演奏による無声映画伴奏に出会い、無声映画伴奏者として本格的に活動を開始。以来、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、リンカーンセンターフィルム協会、米国議会図書館、国立フィルムアーカイブ(東京)など、各地の映画団体・協会や映画祭にて伴奏を務めている。

2010年以降、無声映画作品のDVD/ブルーレイリリースのためのオリジナルスコアも提供しており、Kino Lorberの『黒人映画の先駆者達』(2016年)、『先駆者達:世界初の女性映画監督たち』(2018年)、Milestone Filmsの『蛟龍を描く人』(2024年)など、話題作のオリジナルスコアを多数担当。

無声映画伴奏

偶然の出会いから現在まで

無声映画伴奏

偶然の出会いから現在まで

無声映画伴奏というものに出会ったのは2003年。東京・国立フィルムセンター(現・国立フィルムアーカイブ)が、小津安二郎の生誕100周年記念の回顧企画上映で、無声映画の伴奏をできるピアニストを探している、ということを、大学時代の同級生がわざわざNYまで電話を掛けて来て教えてくれた。無声映画はおろか、無声映画伴奏についても全く知識がなかったけれど、面白そうだったので「やります」と伝えた。

やりますとは言ったものの、はてどう準備すれば良いのかすらも分からない。幸運なことに、同じ内容の企画上映が先にNYで開催されていたので、まずは行ける限りの無声映画上映を観に行った。Donald Sosin氏というピアニストが全ての作品を伴奏していたので、ある日の上映終了後、思い切って話しかけ、私の状況を説明して、どうやったら無声映画伴奏ができるようになるのか教えてほしい、と頼んでみたところ、快く親切に色々と情報をシェアしてくれて、そのおかげで、なんとか東京での初無声映画伴奏をやり切ることができたのだった。

記念すべき初めての担当作品は、小津の名作『生まれてはみたけれど』。観客の前で大きなスクリーンを見上げながら即興演奏をするうちに、私は不思議な感覚に襲われていた。普段、人前で演奏する時は、いつも緊張していたのに、全く緊張しないどころか、映画にすっかり入り込み、時を超えて、小津監督の編集の息遣いと一緒に呼吸しているような錯覚すら感じる。これまで身につけた全ての技術が、この瞬間のためにあったのではないかと思うほどの達成感、恍惚感、高揚感…。これこそライフワーク、答えを見つけた気がした。

NYに戻ってからもひたすら無声映画を観に通ううち、Donald Sosin氏の推薦を受け、2007年にイタリア・ポルデノーネ無声映画祭の伴奏者マスタークラスを受講することができた。そこで知り合ったベテラン伴奏者の方々の紹介で、少しずつ米国でも伴奏の機会をもらえるようになり、無声映画伴奏者として本格的に活動を開始。以来、ジョージ・イーストマンハンス、スミソニアン国立アジア美術館、アメリカ映画協会(AFI)、コロンビア大学、ニューヨーク大学など、各地で伴奏を務めて今日に至る。

2013年より、日本の活動写真弁士とのコラボレーションにも挑戦し、当代トップ弁士と名高い片岡一郎氏と日米で数多く共演。2024年には片岡氏を含む『The Art of the Benshi』ワールドツアーに参加し、ニューヨークとワシントンDCで各4公演に出演、両都市で大好評を博したのは忘れ難い経験となった。

無声映画伴奏というものに出会ったのは2003年。東京・国立フィルムセンター(現・国立フィルムアーカイブ)が、小津安二郎の生誕100周年記念の回顧企画上映で、無声映画の伴奏をできるピアニストを探している、ということを、大学時代の同級生がわざわざNYまで電話を掛けて来て教えてくれた。無声映画はおろか、無声映画伴奏についても全く知識がなかったけれど、面白そうだったので「やります」と伝えた。

やりますとは言ったものの、はてどう準備すれば良いのかすらも分からない。幸運なことに、同じ内容の企画上映が先にNYで開催されていたので、まずは行ける限りの無声映画上映を観に行った。Donald Sosin氏というピアニストが全ての作品を伴奏していたので、ある日の上映終了後、思い切って話しかけ、私の状況を説明して、どうやったら無声映画伴奏ができるようになるのか教えてほしい、と頼んでみたところ、快く親切に色々と情報をシェアしてくれて、そのおかげで、なんとか東京での初無声映画伴奏をやり切ることができたのだった。

記念すべき初めての担当作品は、小津の名作『生まれてはみたけれど』。観客の前で大きなスクリーンを見上げながら即興演奏をするうちに、私は不思議な感覚に襲われていた。普段、人前で演奏する時は、いつも緊張していたのに、全く緊張しないどころか、映画にすっかり入り込み、時を超えて、小津監督の編集の息遣いと一緒に呼吸しているような錯覚すら感じる。これまで身につけた全ての技術が、この瞬間のためにあったのではないかと思うほどの達成感、恍惚感、高揚感…。これこそライフワーク、答えを見つけた気がした。

NYに戻ってからもひたすら無声映画を観に通ううち、Donald Sosin氏の推薦を受け、2007年にイタリア・ポルデノーネ無声映画祭の伴奏者マスタークラスを受講することができた。そこで知り合ったベテラン伴奏者の方々の紹介で、少しずつ米国でも伴奏の機会をもらえるようになり、無声映画伴奏者として本格的に活動を開始。以来、ジョージ・イーストマンハンス、スミソニアン国立アジア美術館、アメリカ映画協会(AFI)、コロンビア大学、ニューヨーク大学など、各地で伴奏を務めて今日に至る。

2013年より、日本の活動写真弁士とのコラボレーションにも挑戦し、当代トップ弁士と名高い片岡一郎氏と日米で数多く共演。2024年には片岡氏を含む『The Art of the Benshi』ワールドツアーに参加し、ニューヨークとワシントンDCで各4公演に出演、両都市で大好評を博したのは忘れ難い経験となった。